クラシック音楽 ブックレビュー


2016年6月14日

◇「指揮者の世界」(近藤 憲一 他著/ヤマハミュージックメディア)

指揮者の世界

書名:指揮者の世界    

著者:近藤憲一 他

発行:ヤマハミュージックメディア(1冊でわかるポケット教養シリーズ)

目次:第1章 コンサートホールに出掛ける前に
       「指揮者って何?」「指揮者って何者?」がわかる基礎知識
        
       付録:名指揮者20のエピソード(文・西村 理)

    第2章 コンサートホールの「指揮者控室1」にて
           この道35年。祭壇を刺激し続ける井上道義さんの「僕が指揮者になって、
           今も続けている理由」

    第3章 その1 コンサートホールの「指揮者控室2」にて
            日本中のオーケストラが、次代を担う逸材と期待している若手指揮者下野竜也さんが
            語った「親方への長い旅程」
          その2 「文化庁長官室」にて
            心理学者 河合隼雄さんに聞いた「指揮者の条件」

    第4章 指揮者とオーケストラの奇妙な友情 その1 都響「コンサートマスター控室」にて
           矢部達哉さんが語った「指揮者は、オーケストラを超えていたら勝ち」
          指揮者とオーケストラの奇妙な友情 その2 コンサートホールの「楽員控え大部屋」にて
           あるオーケストラ楽員たちの”トリッチ・トラッチ”ナイショばなし

    第5章 舞台裏の仕事人たち
        オーケストラマネジャーという仕事がある ”不思議な生命体”指揮者とオーケストラに献身する
        黒衣(文・岩原 正夫)

        セイジ・オザワ サクセス・ストーリー
          ある音楽記者の「僕にとっての“小澤征爾”」

        付録:独断選定「世界の名指揮者50」

 指揮者の仕事は、考えて見れば不思議なものだ。自分では楽器は演奏しないが、オーケストラという楽器を、あたかも演奏するがごとくに振る舞う。そして、演奏が終了すると、聴衆からのブラボーを、舞台の真ん中の一段と高いところで一身に受け取る。誠にもって男冥利に尽きる職業ではなかろうか(もっとも最近では女性指揮者も多くなってきたが)。でもクラシック音楽の歴史を紐解けば、指揮者は最初からいたわけではない。古楽の時代は小規模の室内楽が中心であり、特別指揮者は必要でなかったし、バロック時代も大体似たようなものだった。ところが大編成のオーケストラが出現し始めると、全体を束ねるための指揮者が必要となり、その後、これらの指揮者は、自分の解釈で楽曲を演奏し始めることになる。こうなるとオーケストラにとって指揮者は、徐々に雲の上の存在となり、楽団員にとって、指揮者は怖い存在になって行くことになる。

 これは、あたかも企業における社長と社員の関係を思わせる。企業にとって社長は怖い存在の方が、一般的に言って業績が良いようだ。社長と社員が友達のような関係では、中小企業ならともかく、大企業ではなかなか良い結果は出しずらいのではなかろうか。大編成のオーケストラも大企業と似たところがあるらしく、怖い指揮者の方が、結果的に名演奏を聴かせてくれるようだ。このため、楽団員との私的な関係を一切持たないというポリシーを貫き通す指揮者も少なくないという。情が出ればどうしても思い切った要求が出しづらくなるからなのであろう。月刊「文芸春秋」2016年6月号に「ベルリンは熱狂をもって小澤征爾を迎えた~マエストロの華麗なマジックを追った二夜~」(村上春樹著)に、小澤征爾がベルリン・フィルについて語っている個所が出てくる。「彼ら(ベルリン・フィル)は、僕らの手や身の動きを見ていて、僕の意図をそこから理解するんです。ドイツ語でアフタクト(auftakt)っていうんだけど、日本語だと『呼吸』『息づかい』とでもいうのかな、それをさっと感じ取ってくれる。そしてそれに合わせて演奏を微妙に変えていきます。だからいちいち口に出して注意する必要はない。彼らは耳もいいし、勘もいいし、それに合わせて演奏を変えていけるだけの技術を持っています」。ここに書かれていることは、名指揮者と名オーケストラの場合の話であり、一般的な指揮者とオーケストラの関係の話とは言えないが、如何に指揮という仕事が第三者には、分かりづらいかを物語っていると思う。

 こんな不思議な存在の指揮者ではあるが、では指揮者の仕事とは実際どんなものなのか、ということに真正面から取り上げた書籍はありそうでいて、なかなかないのである。そん中で、この「指揮者の世界」(近藤 憲一 他、ヤマハミュージックメディア刊)は、指揮者の仕事の中身はこんなことですよと、第一線の指揮者に取材し、素人でも理解できる範囲で書かれているところに、その存在意義が大いにあると思う(同書は、2006年にヤマハミュージックメディアから発刊された「知っているようで知らない 指揮者おもしろ雑学事典」を文庫化し、2015年に発刊された)。「指揮者になるための必須条件とは何でしょう?」という筆者の問いかけに、指揮者の井上道義は「本物の指揮者は、その人が出てきただけで音楽を感じさせなければならない。しゃべって説明するとき、ちょっとピアノで弾いてみてって言われたら弾いてみせなければならない。そういうときにきちんと感動を説明出来るだけのもの、簡単な話、音楽性がなくちゃいけないと思う。・・・いわゆるリーダーシップを持つ。それから、探究心っていうかな。スコアの勉強って、ものすごく時間がかかるんですが、それを厭わない忍耐力、そして体力。体力はものすごく要ります。・・・音楽家以外の人に、音楽に投資させてしまうようなカリスマ性というか、ひとつ間違えれば詐欺師みたいな能力(笑)。」と答えている。

 確かにこれらの要件を満たせる演奏家はそうざらにいないであろう。名ヴァイオリニストにリーダーシップを求められるかといえば、それはほんの一握りに限られよう。ましてや、音楽家以外の人に、音楽に投資させてしまうようなカリスマ性をもっている音楽家は、滅多にいないであろう。ここまで読み進めると、演奏が終わり、聴衆からのブラボーを、指揮者が舞台の真ん中の一段と高いところで、一身に受け取ることは、当たり前かなとも思えてくる。楽団員からすると、自分たちが持ち合わせていない能力を身に着けた指揮者は、やはり雲の上の存在なのかもしれない。井上道義は「指揮者の仕事は、山登りのシェルパみたいなものだと思ってるんです。昨日の団体さんはこの山をこっちのコースで登りたいといったけど、今日の団体さんはあっちのコースで登りたいと言う。それを聞いてもいいんです、彼らはその山に登りさえすればいいんですから」と話を続ける。つまり、オーケストラの能力に合わせることも指揮者の仕事の一つということなのであろう。

 ところで、指揮者を置かないオーケストラもある。例えば、世界的に知られたオルフェウス室内管弦楽団などは、指揮者を置いていない。また、日本でも、NHK交響楽団の人気コンサートマスター、“マロ”こと篠崎史紀氏が主宰する、国内トップ奏者によるスーパーオーケストラ「Meister Art Romantiker Orchester=MARO(通称:マロオケ)」なども、指揮者を置いていない。こういうケースをみると本当に指揮者は必要なの?という素朴な疑問が頭を過る。これについて指揮者の井上道義は同書で次のように語っている。「やっぱり指揮者がいないとオーケストラは成り立たないのですよ。20人以上だったら指揮者がいると思う、19人だったらとか細かいことは言わないけれど(笑)。オルフェウス室内管弦楽団というオーケストラも何度も聴いていますけど、うまくいっているときと、いかないときがある。うまくいっているときは、コンサートマスターがちゃんとリードしている。ちゃんとリードしていないオルフェウスはつまらないんです。リードするのが指揮者なんですよ」。

 同書の読みどころは、指揮者やコンサートマスターに直接取材し、要点を訊きだし、それを素材に読者に紹介しているところだ。このため、指揮者やコンサートマスターが何を考え、演奏しているかが手を取るように分かる。付録の「名指揮者20のエピソード」および「独断選定「世界の名指揮者50」もコンパクトにまとめられ、大いにリスナーの参考になる。(蔵 志津久)

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